ガリレイは <イタリア・天文学者・人物>

イタリアの物理学者、天文学者。近代科学の創始者の一人。

没落しつつあったフィレンツェの小貴族出身のビンチェンツォG. Vincenzoを父に、アマナッティGiulia Ammannatiを母に7人兄弟の長男としてピサに生まれる。

10歳で一家とともにフィレンツェに戻り、12~13歳ころ修道院付属学校に入り古典語学などを学んだ。

1581年ピサ大学医学部に入学、83年に振り子の等時性を発見するが、当時のピサ大学はスコラ学者が勢力をもち、真理探究の場にはほど遠かった。

そこで彼はトスカナ大公主催の移動貴族学校に入り、ここでリッチOstilio Ricciにユークリッド幾何学やアルキメデスの力学を学び強い影響を受けた。

1585年ピサ大学を退学、87年フィレンツェのアカデミーに「小天秤」「固体の重心について」の2論文を提出した。

これが契機となり、その後支援を受けるデル・モンテ侯爵Guidobaldo Del Monteと知己となった。

1589年ガリレイはデル・モンテ侯のつてと、アカデミーに提出していた論文とによりピサ大学数学講師となる。

3年間をピサ大学で過ごすが、その間に、斜面を用いて落体の実験を行い、「運動について」を書いた。

なおピサの斜塔の実験は伝説らしい。

92年パドバ大学数学正教授に転任した。

28歳でガリレイはパドバ大学に移ったが、以降18年間が彼にとって穏やかで実り多い時代であった。

大学ではユークリッド幾何学およびプトレマイオス天文学を教え、私的な授業を行い、「簡単な軍事技術入門」「築城論」「機械学」などを著し、また、かつてリッチに学んだ応用数学を研究して種々の計算尺を製作、販売するなどした。

生活面ではマリナ・ガンバという女性と恋に落ち、正式な結婚はしなかったが、1600年に長女ビルジニア、翌年次女リビア、06年長男ビンチェンツォが生まれ認知した。

なかでもビルジニアはガリレイに愛され、晩年になってからの彼の大きな慰めとなった。

1610年ガリレイはパドバ大学を去り、トスカナ大公の第一数学者兼哲学者としてフィレンツェで著作、研究活動に専念できるようになった。

翌年リンチェイ学士院会員となるが、15年ローマの異端審問所に告発され、翌年第一次宗教裁判の決が下った。

32年第二次裁判が始まり、「異端誓絶」を宣告されアルチェトリに幽閉される。

38年両眼を失明、42年病没。いかなる葬儀も墓標も不許可であった。
update:2010年03月18日